黒田官兵衛は、戦国の世、天下統一に突き進む豊臣秀吉の軍事参謀として仕え、その知略を発揮します。
秀吉の九州平定後天正15年、官兵衛42歳の時に豊前6郡12万石の領主となり、翌年中津城の築城を開始します。
宇都宮鎮房らの一揆を鎮圧後44歳の若さで隠居します。
稀代の天才軍師といわれた黒田官兵衛、彼の生きた軌跡を辿る旅をご紹介します。
求菩提資料館所蔵 官兵衛「桜狩の歌」を見る
黒田官兵衛が求菩提山を訪れ、求菩提山座主※1の豪貴法印とともに桜狩を楽しんだときに詠んだ歌の短冊がここ求菩提資料館に所蔵されています。
官兵衛を含む主従と豪貴法印のものの13首の短冊が残されており、「円清」というのが官兵衛の歌。官兵衛が中津在任時代に行った花見は九州で初めて行われた花見の可能性が高く、しかも確実な史料として歌の短冊までが残っているのは稀有な例で、花見の史料として九州最古であることは間違いないと言えます。
※座主・・・天台宗の最高位のこと
〒828-0085 福岡県豊前市大字鳥井畑247 TEL 0979-88-3203
開館時間 9:30~16:30 (入館は16:00まで)
月曜日休館(祝日の場合は翌日が休館日)
入館料 無料
“山ふかく分け入花のかつ散りて 春の名残もけふの夕暮”
「花」「散りて」が宇都宮氏を倒した事を示し、「名残」「夕暮」は宇都宮氏を倒したことによる虚しさや謀殺したことに対する後悔の念などを現していると云われています。
もともと謀略等により人を騙すことを嫌っていた官兵衛は、宇都宮氏にした仕打ちについて、生涯悔いていたといわれ、この歌もまた、そんな官兵衛の人間性が垣間見えるものだといえます。
九州で初めての桜の「花見」が行われたとされる芭蕉塚
黒田官兵衛主従たちが、求菩提山座主の豪貴法印と桜狩を楽しんだと考えられている山桜の名所。桜狩の歌もここで詠んだとされ、更に九州で初めての桜の「花見」が行われたと考えられています。春には見事な山桜を楽しむことが出来ます。
※史跡ガイドボランティア(無料)等の同行をお勧めいたします。 求菩提資料館、求菩提キャンプ場手前の求菩提公共駐車場を右折し、県道32号線を求菩提山方面へ。一本道を進みます。頭上にかかる赤い橋(次郎坊天狗橋)が見えたら付近に車を停めてください。そこから看板に従い築上町方面へ徒歩で進みます。(往復約40分)かなりの山道ですので必ず歩きやすいスニーカーで行くことをお勧めします。黒田氏お抱えの石工集団が技術指導した石垣
求菩提山の石垣の中で最も古いものは、黒田氏が豊前国を支配していた頃のものと考えられています。座主の邸宅入口から参道沿いや求菩提山の豊照神社から中宮にいく途中の参道沿いなど、様々な所で石垣を見ることが出来ます。求菩提山の最初の石垣が、黒田氏お抱えの石工集団の技術指導によって造られた始めたと考えられています。周辺には官兵衛が中津城築城に当たり、地鎮祭を執り仕切った「玄海法印と母の墓 」(徒歩40分)があります。
求菩提資料館、求菩提キャンプ場手前の求菩提公共駐車場を右折し、県道32号線を求菩提山方面へ。一本道を進みます。「求菩提山登山道はこちら」の看板を左折。参道周辺で見る事が出来ます。道が余り広くないので大きい車ではおすすめ出来ません。常在山 如法寺
〒828-0071 福岡県豊前市山内991
TEL 0979-88-2226
黒田官兵衛に滅ぼされた宇都宮氏ゆかりの寺
400年余りにわたり豊前の国を統治してきた宇都宮氏一族ゆかりの寺。宇都宮氏一族は、鎌倉幕府が成立する課程でその戦功が認められ、関東御家人として豊前周辺の地頭職を与えられました。その後、国内の一族支配を強める中で、豊前宇都宮氏の初代信房の三男信政が、如法寺の座主として如法寺氏を名乗るようになります。戦国時代末期、豊臣秀吉の九州統一の命により攻め入った黒田官兵衛親子に滅ぼされその歴史に幕を閉じます。如法寺のハスとして蓮の花が有名です。7月中旬から8月上旬までが見頃。
黒田官兵衛が九州で初めて築いた城
天下統一に突き進む豊臣秀吉を軍事参謀として支えた黒田官兵衛が九州で初めて築いた城。別名扇城と呼ばれます。堀に海水を引いた中津城は、日本三大水城のひとつに数えられています。本丸北側には「黒田時代の石垣」や、西側には宇都宮鎮房を「城井大権現」として城の守護神として祀った「城井神社」や従臣たちの「扇城神社」、南側には黒田官兵衛資料館、黒田官兵衛みやげ館などがあります。
城井神社
中津城で黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房は、この地に埋葬されました。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が「城井大権現」として、城の守護神として祀るようになりました。
扇城神社
黒田氏に謀殺された宇都宮氏の従臣が祀られています。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が宇都宮鎮房を城井大権現として祀るとともに、従臣を稲荷大明神として祀ったことが始まりです。
黒田時代の石垣
本丸北側には、「y」字状の目地が通る石垣を見る事ができます。向かって右側が黒田時代の石垣、左側が細川時代の石垣です。中津城築城の際、官兵衛は、川上にある7世紀の遺跡(唐原山城)の石を再利用し、早く効果的に築城したと云われております。
合元寺
黒田官兵衛が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して、空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立しました。黒田氏入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内で誘殺された時、鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけ、奮戦するも、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです。その後壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったといいます。寺は赤壁寺ともよばれています。
円應寺(通称河童寺)
黒田官兵衛公による開基で、真誉見道上人の開山。黒田氏が福岡に移った後も細川氏、小笠原など歴代の藩主に大切にされました。境内の「河童の墓」は、黒田二十四騎の一人・野村太郎兵衛の墓ともいわれています。
西蓮寺
開基・光心師は俗名を「黒田市右衛門」といい、黒田官兵衛の末の弟です。父黒田職隆の逝去に伴い、出家したといわれ、官兵衛を慕い中津に移り、天正16年(1588)に当寺を開山しました。
黒田官兵衛・長政親子が復興に力を注いだ、
八幡社の総本宮、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟「宇佐神宮」
全国 4万余社ある八幡社の総本宮です。伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟とされています。神仏習合文化と神輿の発祥地で、境内には朱塗檜皮茸の社殿が多く点在しています。本殿は「八幡造」と呼ばれる神社建築の代表例として、国宝に指定されています。
天正 17 ( 1589 ) 年、黒田官兵衛は、豊後大友氏による焼き討ちなどで衰退していた宇佐神宮に対し、寄進するなどして再興に着手しました。慶長 4 ( 1599 )年には、息子・長政によって二之御殿が完成しており、豊前国における宇佐神宮の影響を重要視していたことがうかがえます。
〒828-0071 大分県宇佐市大字南宇佐2859 TEL 0978-37-0001
開門時間 5:30~21:00(4月~9月) 6:00~21:00(10月~3月)